カラカウア王(デービッド・カラカウア)(在位1874-1897年 17年間)
ルナリロ王も後継者を指名しなかったことから再び選挙で選ばれ、王位に就く。
この時の対抗馬は4世の妻、エマ王妃。
エマ王妃は市民の人気が高く、支持者による暴動事件も起きた。
就任時は在住外国人(特に米国)の激しい圧力に加え、西欧各国からの圧力もあった。
米国に対抗するために世界各国との交渉が必要と、1881年世界一周の旅に出る。
日本にも来航し、明治天皇と謁見している。
その際にカイウラニ王女と山階宮定麿王との縁談を提案、のちに拒否されている。
この来日により日本からハワイへの官約移民が実現する。
また純粋なハワイ人の人口減少による伝統文化の衰退を憂慮し、禁止されていたフラの復活、門外不出とされていたハワイ創世神話「クリムポ」の公開、国家「ハワイ・ポノイ」(現州歌)の制定、イオラニ宮殿の建設、カメハメハ大王像の除幕式など伝統文化復興に尽力する。
この事が米国系白人たちに警戒心を抱かせ、互恵条約の不条理な改正やベイオネット法(白人により強制された新憲法。ベイネット=銃剣⇒恫喝されてできた法案)公布の要因にもなりました。
1891年、病気治療のため滞在していたサンフランシスコで死去。
メリーモナーク(陽気な王様)と呼ばれフラの復活をはじめ伝統文化復興に尽力したカラカウア王。
王自信も楽器の演奏や作詞など音楽の才能がありました。
カラカウア王、リリウオカラニ女王、リケリケ王女、レレイオーホクの4人兄弟は音楽の才能に溢れていました。
彼らが作った楽曲は今でもハワイの人々に歌い継がれています。
妻はカピオラニ王妃。
1876年に所有地を開放し、愛妻の名を付け公園にしました。
それがダイアモンド・ヘッドの麓に広がるカピオラニ公園です。